「偶然と想像」ではなく、「想像と偶然」

※この文では濱口竜介監督「偶然と想像」の結末に関する記述を含みます。

濱口竜介監督の『偶然と想像』という映画がある。3つの短編で構成させるこの映画を貫く主題は題名通り「偶然と想像」だ。思いがけない「偶然」の出来事をきっかけにして、起こるはずのなかったその先を「想像」する。

この映画のパンフレットに掲載されている濱口監督と多分に影響を受けた映画監督エリック・ロメールと共に仕事をしていたマリー・ステファンの対談の中で、濱口監督は以下のように語っている。

「偶然というものが起きると、そこには必ず「もしあのときそうしていなかったら」という発想が生まれます。つまり、何かが「起きた」世界と「起こらなかった」世界が共に見えてくる。偶然と想像力はどこか繋がっているのです。」

濱口竜介、『偶然と想像』、2022、p.14(パンフレット)

つまり、「起きた」世界が「偶然」であり、その「偶然」をきっかけにして「起きなかった」世界が「想像」されるのだ。

この「偶然」と「想像」の関係を、私はこの文の題名通り、「想像」と「偶然」としてひっくり返して考えてみたい。

前述したように「偶然と想像」は3つの短編から構成させている。私はつい先日この映画を鑑賞したところだが、特に3つ目の「もう一度」という話が印象に残っている。

元ITエンジニアの夏子(占部房子)が高校の同級生と思われる女性に「偶然」出会うところから始まるこの話は、中盤で実は出会った女性は夏子が探し求めていた同級生ではなく、全くの赤の別人だということがわかるところから思わぬ方向に転がっていく。

赤の別人であったあや(河井青葉)は夏子のずっと会いたかった、そして過去に愛していたミカではなかったのだが、あやは自分をミカだと「想像」して話してほしいと夏子に提案する。夏子はあやをミカだと「想像」することで、ずっとミカに対して抱いていた想いを言葉にすることができる。

この話は一見、夏子がミカに会うという「偶然」からもしミカに会ったら/会わなかったらという「想像」が生まれているように思われる。ただ、話が進んでいくうちに実は「偶然」(=夏子がミカに会う)は起こっておらず、あやの提案によって「もしミカに会っていたら」という「想像」をすることで、ミカに会った時に引き出されていたであろう言葉を「偶然」引き出すことができているという、「偶然」と「想像」の逆転が起こっているのだ。

濱口監督の言うように、「偶然」が何かが起こらなかった/起きた世界を「想像」することは映画上ではあるかもしれない。でも実際、私たちが生きている中でそのような「偶然」に遭うことは至難の業だ。そのような時、「もし何かが起こったら」という「想像」を先に行ってみたらどうだろうか?その「想像」が「何かが起きる」という「偶然」を引き出すかもしれない。

そのような考えのもと、私はこの場に文を載せていこうと思っている。

地球上の海よりも広いのではないかと思われるこのインターネットという場の中で、ひとつまみの砂ほどにもならないだろうこのサイトに載せる文に読み手はいるだろうか。

文とは書き手と読み手がいることで成立する営みだとするならば、私はこの文の読み手をただひとり「想像」する。そして、その想像された、ただひとりの読み手に私はこの場の文を全て捧げる。いつかその「想像」が「現実にその読み手が読み手となる」という「偶然」を引き起こすことを願いながら。