「すき間」としてのイッセイミヤケ論

ファッションの/好みが少し/変わるとき/生き方の好み/微妙に変わる(松田 わこ)

『朝日新聞』2022年2月27日朝刊「朝日歌壇」

1,

思い返せば、ファッションの好みが瞬く間に変わってしまう人間だった。

 自分で自分の服装を選び始めたのは中学生の頃からだったが、その頃から大学卒業まで私の服装は毎年、いや毎シーズンごとに変わっていたように思う。ショッピングセンターで母を連れ回しながら5時間かけて選んだ1着が1年後には陽の目を見ないということはざらにあった。

 「MAJESTICLEGON」のような花柄とレースで構成された可憐なものから「179/WG NICOLE CLUB」のようなアクティブでボーイッシュなもの、はたまた「ZARA」のような前衛的で先鋭的なものまで、私の服装の変遷はかなり多様だ。

では、会社員になって労働時間を対価として賃金をもらう身になった現在、その給与を一番使っているものは何か、と問われれば迷わず「イッセイミヤケ」と即答できる。

もちろん薄給で働く身であるから、全ての服をイッセイミヤケで揃えるほどに費やすことはできないが、ボーナスや日々の給与を貯金して少しずつ集めている。

 最初に手に入れた服は、「132 5.ISSEI MIYAKE」というイッセイミヤケの中でも比較的最近(2010年)に誕生したブランド・ラインで作られた「FLAT WOOL」というコートだ。

 「一枚の布(1次元)から立体造形(3次元)が生まれ、折りたたむと平面(2次元)になり、身にまとうことで時間や次元を超えた存在(5次元)になるように」(132 5.ISSEI MIYAKE 公式HPより)という名前の由来を持つ「132 5.」、その最たる特徴は、折り紙のように折りたためることだ。

 深い赤茶色と少し暗めの橙色の2色の糸で二重織されている「FLAT WOOL」も例に漏れず、着ると着物のように長い袖と裾が波打ち立体的になるのだが、脱いで袖部分を横に広げると胴体部分が一つの縦長の長方形に、袖部分が左右一つずつ横長の長方形の平面となり折りたたむことができる。

 最初にこのコートを着た時は、自分史上一番高い買い物だったこともあり、皺を作ってしまわないか、汚してしまわないか、ひやひやしたものだった。ただ、マントのような大柄なコートのシルエットが、比較的長身である自分の身体にぴったりと馴染んだ時の高揚感は、他の服には感じたことのないものだった。

 それからというもの、現在に至るまで私のファッションの好みは「イッセイミヤケ」だ。それまであれやこれやと変わっていた好みをぴたりと決めさせてしまったイッセイミヤケに出会ったのは、大学1年生の時だった。

2,

 「三宅一生です、一番影響を受けた人は。」

私が「イッセイミヤケ」、というより「三宅一生」の名前を初めて耳にしたのは、大学1年生の夏休み前、授業の一環でグループに分かれて大学教員へ行ったインタビューの時だった。その時、インタビューに応じてくれた大学教員はそう口にした。本題のインタビュー後の雑談の中で「先生が一番影響を受けたと思われる人物はどなたですか」という拙い私の質問への答えだった。

 ファッションが好きではあるものの、ファッションに詳しいわけではなく、ブランドの名前もほとんど知らなかった私は、その時、初めて「三宅一生」というデザイナーが立ち上げた「イッセイミヤケ」というファッションブランドの存在を知った。

 「イッセイミヤケ」の名前は知らなかった私だが、「イッセイミヤケ」の服自体は何度も目にしたことがあった。なぜなら、インタビューに応じてくれた先生がイッセイミヤケしか着ない人だったからだ。(ちなみにインタビューの時もイッセイミヤケを着ていた。)

 他の大学教員が地味な色のスーツを一様に着ている中で、その先生の鮮やかで華やかな色合いや、イッセイミヤケの最大の発明品とも言えるプリーツの揺らめきは、高校を卒業してから間もない、まだ子どもだった私に強い印象に残した。毎週異なるイッセイミヤケを身に纏って教壇に立ち授業を行う様子は、さながらファッションショーの様だった。

 そのような先生だったが、専門は哲学であり、授業でも様々な哲学者、思想家の名前を耳にしていたため、「一番影響を受けた人物」としてファッションデザイナーの名前が出てきたときは少し意外に感じたのを覚えている。

「長年の研究対象者の哲学者たちよりも影響を受け、そして身に纏うものを全てそれにしてしまう『イッセイミヤケ』とはどのような服なのだろうか。」

先生が三宅一生を説明するために研究室の書棚から引き出してきた写真集──三宅一生と親交が深いIrving Pennがイッセイミヤケを撮り下ろしたもの──を眺めながら、私は「イッセイミヤケ」を初めて知り、そして興味を抱いたのだった。

 その後、大学を卒業し会社員になった私はイッセイミヤケの服を手に取るようになった。

 

あのインタビューの後、「イッセイミヤケ」に興味を抱いた私は、あの日先生に見せてもらった『Irving Penn issei miyake』をはじめとして、大学図書館で三宅一生に関する書物を読み漁った。しかし、今となっては読み漁ったという記憶ばかりが残るのみだ。

 先生のように「三宅一生」に強く影響を受けたわけではないものの、今の会社員の私にとって「イッセイミヤケ」の服はなくてはならないものになっている。

 それは、私にとって「イッセイミヤケ」は、会社という「社会」と「自分」の間に、ある一定の適切な距離を生み出してくれる「すき間」のようなものだからだ。

 「社会」と「自分」の適切な距離、これを大学の授業で聞いた言葉を借りると、「社会から遊離しすぎず、さりとて迎合しない」ということになる。

 隠遁生活のように社会から離れすぎるのではなく、かといって自分なりの善悪の判断を棄てて会社の言うことを絶対とするように社会にひっつきすぎてはならない。

 これは、大学時代に勉強した哲学を大学院に進学して続けるのではなく就職し働くことを選んだ私が自分への戒めにしている言葉だ。仕事に平日のほとんどの時間を費やすような生活をしていると、社会から遊離しすぎることはないものの、逆に迎合するようになってしまう。そのような毎日の中でイッセイミヤケを着ることは、「私」と「社会」の間に適切な距離感を生み出す「すき間」を身に纏うことだと思っている。

3、

「三宅一生の服は、日常生活を豊かにするものであると同時に、公式の場でフォーマルとしても着られている、従来の「衣服」の概念を超えたものなのだ。」

本橋弥生(2016)「三宅一生の仕事」、『ISSEI MIYAKE展:三宅一生の仕事』、pp. 10

上の文は、イッセイミヤケへの1つの評価だが、個人的にもイッセイミヤケの服は「型」を超えていくところがあると思う。

 洋服を着る時、私に限らず、人は時、場所、性別を意識しているのではないか。

若者らしいと言われるような恰好、会社に行く時はスーツ、女性しかスカートを履かない、というように。

 でも、イッセイミヤケはそのような、言ってしまえば窮屈な「型」を軽々と超えてしまうようなところがある。

 例えば、今手元にあるイッセイミヤケの服たちは10年後の私が素材的にもデザイン的にも着ることができるだろうと思う。老いも若きも同じものを着ることができるから。

 例えば、会社のような公的な場でも、友達と遊ぶような私的な場でも、はたまた招待された結婚式のような晴れの場でもイッセイミヤケは着ることができるだろうと思う。かっちりとしたフォーマルとゆるゆるとしたカジュアルの間にそれはあるから。

 例えば、私は男性向けに作られたイッセイミヤケも、女性向けに作られたそれもどちらも着ることがあり、それらは自分に似合っていると感じる。イッセイミヤケの服は性別を選ばない。それは過度に男性らしさ/女性らしさを強調するようなデザインではないから。

このようにイッセイミヤケの服は時、場所、性別から勝手に感じ取ってしまう「このようにあるべき」という型と自分との間に「すき間」を作ってくれるのではないか、と私は思っている。

 特に私にとっての「型」を具体的に言うならば、それは「会社員」である。「会社員とはかくあるべき」という型に嵌り過ぎてはいけない(それは言い換えれば、社会への迎合となりかねないからだ)と思う一方で、嵌りたいと強く思うところもある。そして平日のほとんどの時間を「会社員」として過ごす現在、私は「会社員」という型に寸分の狂いもなく嵌ってしまいがちだ。そのような「私」にとって、イッセイミヤケの服は、私と型(=社会)との間に距離を生み出してくれる効用があると信じている。

 なぜなら、イッセイミヤケの服は、「会社員」らしさを過剰に演出しないからだ。「私」イコール「会社員」ではなく、「私」が会社という場で働いている「だけだ」ということは現前せしめてくれる。服が「型」となるのではなく、「型」と「私」の間の「すき間」となってくれるのだ。

4、

 このように私が「会社員」に固執する理由は、そもそも私にとって「会社員」になることは憧れであり、同時に恐怖であったからだと思う。

 幼い頃から同い年の人たちと比べてどこかどんくさくぼんやりとしていた私は「普通」への憧れが強く、「会社員」もその「普通」の一部だった。そのため高校卒業までは「会社員」という社会の小さな歯車としてうまく回ることにどこか憧れていた。その一方で大学入学後、4年間学んだ哲学という学問は、何の疑問も持たずに社会の歯車となることを批判的に見る「懐疑の目」を私の中に生み出した。

 盲目的に「普通」に憧れていた私にとって、この「懐疑の目」は青天の霹靂であった。そして大学の4年間のうちに、これから私が生きていくうえで「懐疑の目」は失ってはいけないと考えるようになった。だからこそ、憧れの「会社員」になると決めた時に、憧れであるがゆえに「会社員」という型に嵌りすぎてしまい、「懐疑の目」を失ってしまうのではないかと恐れた。そして、「懐疑の目」を失うということは社会に迎合するということと同義だった。

 「普通」と「懐疑の目」、この2つを両立させた状態が「社会から遊離しすぎず、さりとて迎合しない」という「私」と「社会」の適切な距離感だと思っている。

ここで少し視点を変えて、ファッション論でかの有名な鷲田清一の言葉を引用する。

「ぼくらはけっして「身分相応」の、飼い馴らしやすい存在になってはいけない。ほどほどのサイズ、人あたりのよいイメージのなかにすっぽり自分をはめこみ、そこで安眠を決めこんではいけない。つつましくおさまりきった〈わたし〉をたえずぐらつかせ、突き崩すこと。そう、自分の存在がちぐはぐであるという負の事実を、ぼくらの特権へと裏返さなければ…。ちぐはぐであるということは、じぶんの存在ががちがちにまとまっていなくて、むしろじぶんをゆるめたり、組み替えたりする「あそび」の空間があるということなのだから。」

鷲田清一(2005)『ちぐはぐな身体 ファッションって何?』、筑摩書房、pp. 69-70

 「普通」自体には悪い意味はないのだが、私のように「普通」に過度に憧れて、自ら型に嵌まりにいこうとすることに対して、鷲田は「そこで安眠を決め込んではいけない」と言っているように思う。

 鷲田の言うように「自分の存在がちぐはぐ」であるならば、「普通」にぴったりすっぽり嵌まることなど出来やしない。どこかに「ずれ」や「収まりの悪さ」のような違和感があるだろう。さらに嵌まろうとすればするほど、その違和感は強く自分に働きかけてくる。この「ちぐはぐ」が「負の事実」となるとき、それは私が憧れたように社会の小さな歯車になることを求められた時だと考える。社会がうまく回るために歯車は決められた形(型)であることを求められる。でも実際のところ、歯車となる私たちは「ちぐはぐ」であるから、うまく回らないことも多々発生してしまう。これでは「ちぐはぐ」とは一見困ったことのように見える。

 でも、この「ちぐはぐ」を「ぼくらの特権」とするならば?「じぶんをゆるめたり、組み替えたりする「あそび」の空間」が自分の存在の内に含まれていること。それを「特権」にすることは、時や場所や性別から規定されずとも、自分自身だけで存在できるということだ。そして、それは自分を規定しない時、場所、性別という型=社会を自分とは切り離して対象化し、「懐疑の目」を向けることにも繋がる。

 

 この自分の内にある「ちぐはぐ」、言い換えれば、自分という存在の不確定さ、柔軟性を守ってくれるのがイッセイミヤケの服だと思う。イッセイミヤケの服は私に何かしらの型に嵌めようとしない。むしろ、自分の身体の形に沿って空気のように纏わり、自分の身体の動きに合わせて形を変えていく。イッセイミヤケは凝り固まってしまった型を強要するものではなく、柔らかな自分という存在を顕す1つの表現となる。そして、その時、型──言い換えれば、「社会」と、それに嵌まりがちな「私」の間には少しのずれ──言い換えれば、「すき間」ができているように感じる。

 イッセイミヤケの服を着ることは、私にとって「社会から遊離しすぎず、さりとて迎合しない」を実践する一助となっているのだと思う。

5、

 最後に、社会との関係性の中での「私」ではなく、ひとりの人間としての「私」の在り方という視点から、私がイッセイミヤケを着る理由を的確に表したイッセイミヤケ評を紹介する。

「イッセイの創る服は、飾ってあると、ずた袋のように見えるが、そこに肉体をいれると、突然個人が姿を現してくる。長所も欠点も気持ちがいいほどスパッと露出する。だから自信をもって着ていると心地よいが、弱気になると服に負ける。受け身にならないで、能動的に生きているかぎり、服と対話を続けられる。」(石岡瑛子)

三宅一生(1983)『ISSEI MIYAKE BODY WORKS』、小学館、pp. 32

 「普通」とは、社会から要求され(ているように勝手に感じ)た「型」のようなものだと今では思っている。社会というのは一枚岩ではないし、「私」がいる時代や場所によっても変わる。時や場所が変わるたびに変わってしまう「型」に嵌まることに固執していたから、ファッションの好みも目まぐるしく変わっていたのかな、と後から理由付けることもできるだろう。

 そうであるならば、イッセイミヤケの服を着ることを選んだ時、私は他でもない自分自身がどのように在りたいかということも同時に選んだのだと思う。

(おかゆちゃんからのお題:最近の一番高い買い物)