最近寒くて起きられない。
スマホのアラーム止めて、目覚まし時計も止めて、あと5分寝ちゃえって思ったんだけど、遅刻したらお局に怒られるな〜ってお局の顔浮かんできて、起きた。笑
今日今シーズン初めて暖房つけちゃった💦
こんなんで冬越せるのかな〜😭
"Have you ever lost anything of real pearsonal importance to you?"―"A-ko's Boyfriends" presented by Akino Kondoh
最近寒くて起きられない。
スマホのアラーム止めて、目覚まし時計も止めて、あと5分寝ちゃえって思ったんだけど、遅刻したらお局に怒られるな〜ってお局の顔浮かんできて、起きた。笑
今日今シーズン初めて暖房つけちゃった💦
こんなんで冬越せるのかな〜😭
どうもこんばんは、おかゆです。
2023年11月11日、文学フリマ東京に出店(出展?)しました。
このブログを読んでいるということは、『くらむ式ドロップス』を買ってくださった方ですね?
ありがとうございます。
当サイトは、今までどこにも宣伝したことがなく、文学フリマに出店するまで、私おかゆと、みそちゃんだけが知り、運営するサイトでした。1からサイトを作ってみたい、という2人の欲望から生まれたサイトで、更新頻度も適当です。(おいおい)
しかし今回、『くらむ式ドロップス』の奥付けにこちらURLを載せ、『くらむ式ドロップス』の購入者の皆様と、私たちclamshellだけが共有する秘密のサイトとなりました。まあ、秘密にするほどの内容は書いてないんですけど。笑
『くらむ式ドロップス』はいかがでしたが。みそちゃんのエッセイは良いものだと私は確信しているのですが、小説の方はいかがでしたか。小説執筆歴4ヶ月目の作品なので、伸びしろしかないですが、楽しく読んでいただけたでしょうか。
秘密のサイトらしく、1つ裏話を書いても良いでしょうか。え、良い?よかったです。
私の書いた短編小説の構成は、
「薄荷」→ギャグ
「オレンジ生活」→エッセイ風
「パインの国」→童話風
「メロンソーダ先生」→ギャグ
というギャグで始まりギャグで終わるような構成となりました。「薄荷」については、これぞ同人って感じですね。伊坂幸太郎が好きだと、より楽しめるのではないかと思います。
特筆したかったのは、「パインの国」。パイナップルの花言葉に「完璧」があることから、「完璧な存在」としてアンドロイドが浮かびました。
最初に浮かんだのは、アンドロイドだけで暮らす国があり、アンドロイドは完璧なあまり不倫や浮気などをしないため、ある小説家のアンドロイドが「面白い話が書けない」と悩んでいたが、ある日その国に人間がやってきて、小説家のアンドロイドは浮ついた心を持った人間を食べて小説のネタを編み出す、みたいなストーリーでした。
それが、10月の上旬くらいでした。
そんな時、あるニュースが流れて来ました。
「イスラエルと、パレスチナ自治区ガザ地区を実効支配するハマスが軍事衝突した。」
昔、高校生の時に授業で聞いた、ガザ地区。「歴史が複雑な場所」だと授業で習ったまま、記憶の中で置きっぱなしになっていた場所。
世界では、ロシアとウクライナの戦争も終わっていないし、再び別の場所で戦争が起きようとしているのに、私はこんなくだらない話を書いていて、良いのだろうか。
私がどんな話を書いたとしても、戦争が終わるわけでもありません。何を書いたって、世界は変わりません。
だけど、2023年の10月にも、戦争はまだ起きていた、と、小説という形で残しておきたかったのです。ただの私の自己満足です。
「パインの国」の最後の一文を書いたとき、「この作者の顔が見てみたいものだ…(お前だよ)」みたいな気持ちになりましたが、共通テーマの「逸脱」の間反対にある「完璧」について、自分なりに考えることはできたかな、と思います。
「パインの国」の喪失を救うように、「メロンソーダ先生」はちょっと明るめに、「ふふっ」と笑えるように書きました。
メロンソーダ先生についても、書きたいことはたくさんありますが、またいつかの機会に。
感想がもしあれば、私のTwitter(@earth_okayuchan)にぜひお寄せ下さい。みそちゃんのエッセイの感想でも、何でも構いません。
改めて、この度は『くらむ式ドロップス』をご購入いただき、ありがとうございました!
十一月 冬の便りが来た日に おかゆ
どうもこんばんは。おかゆです。
先月の3連休と今日、みそちゃんのお家にお泊まりしてます。
そう、文学フリマ東京37に出展するためです!!!!!!!!
お互いに4本ずつ記事を書いて、冊子にまとめる予定です。今週末の合宿の目標は、表紙を作ったり目次を書いたりすることですが…。
同人活動って難しいですね。いや、表紙を寸法通りにデザインするのが難しいだけかも…。同人活動している人ってすごい。ページ数決めて、印刷所に送る表紙のデザイン決めて、寸法通りにそれを保存して、もちろん中身書いて…。慣れたらできるようになるのかしら。とりあえず、みそちゃんと手分けしてやってます。事務作業は8割くらいみそちゃんがやってくれてます。ありがたい。
そういうみそちゃんは、「今夜は書いて寝るぞー!」とルンルンして椅子に座ったら、床に置いたスマホを椅子で潰して画面が割れて、メンタルが潰れてました。すぐにやや回復したけど。笑
10月末の入稿まで、なんとか形にできるようにがんばりま〜す!
2023.10.06 涼しい風の夜に おかゆ
畢竟、人間とは、さまざまな形式と内容からなる <交換>を繰り返して生きていく存在だからだ。 『scripta』ある巻のある一篇より
たまたまこの世界に生まれ落ちた日、太陽が天秤座の空に在ったというだけのことだが、いつからか、わたしは自分が天秤座であるということを選択や判断の基準の一つにするようになっていた。
どういうことか。ここで言いたいことは占星術的な自己分析を行ったということではない。二つのものが見事に釣り合う一点を見つけ出す道具である「天秤」をイメージしながら、わたしのなかで絶えず渦巻き犇めき合う欲望たちが一堂に調和する一点(と思われるもの)を選んできた、ということだ。
そして、その「天秤」のイメージは他人との関係を築くうえでも同じように思い浮かんでいた。他人から自分が受け取った分だけ、自分も他人に与える。母親に昔から聞かされてきた「give and take」という言葉の影響もあったのだろう。
例えば、友人から誕生日プレゼントをもらったら、自分も友人へ同じ価格帯の誕生日プレゼントを贈る。恋人から愛の言葉をもらったら、自分も恋人へ同じ重さの愛の言葉を贈る。そのように、わたしは「他人から受け取るもの」と「自分が与えるもの」が<等価交換>になるように意識していた。
この<交換>は、他人との関係だけでなく、自分の人生でも起きているようだと、これもいつからか思うようになった。何かを失ったら、代わりに何かを与えられる。と同時に、何かを与えられたいなら、何かを棄てなくてはならない。
そのような<交換>の概念を持っていたわたしは、つい先ほど永らく切望していたある文章を、想定していた以上に早く受け取ってしまったのだった。
わたしは、この文章を受け取った<交換>として、これから何を与えていくのだろう。
また、この文章を与えられた<交換>として、いまこの瞬間に何を失ったのだろう。
そして、与えていくもの、失ったものは、どのような形式で、どのような内容なのだろうか。
*
この引用元の冊子名である「scripta」という語は、どうやら「Verba volant,scripta manent.」というラテン語のことわざから取れられているようだ。日本語に訳すと「言葉は宙を舞い、書いたもののみ残る」という意味らしい。
先述したように、ある文章を永らく切望していたわたしは、その文章がこの冊子に納められているような予感を感じて、「scripta」という語を検索し、冊子の詳細と共にこのことわざにたどり着いた。これは別の話だが、ちょうど近しい人間が自分宛に書き残していた文章を享受していたわたしは、このことわざの意味することに深く首肯していたのだった。
そのようにしながら、ついに冊子が刊行されたことを知り、すぐさま冊子を手に入れたわたしが、待ちわびていた文章を読み終えたとき、最初に思い浮かんだ言葉はあのことわざだった。
文章を読んだことで、自分のなかに生まれた感情や思考は言葉に成らなかった。この言葉たちを紡いている間にも言葉から零れ落ちていく、言葉に成らないものが確かに在る。
でも、それでも、一生に一度しかない、いまこの瞬間を、手元に流れ落ちてきてくれた、この一筋の綺羅星を、宙に浮かせたまま残さないのではなく書いたものとして残したい、そのことをこのことわざが指南してくれたのだ。
その指南に従い、ここに書いたものを残す。いつか、わたしの書いた文章に、また先生の目を通してもらえる日が来ることを、この綺羅星に誓って。
カスタネダがドン・ファンと知り合った最初のころ、 カスタネダは彼の親族関係や系譜に関する、 文化人類的な調査の項目をたくさん用意し、 ひとつひとつチェックしていこうとする。 しかしこの企ては「わしには履歴なんぞないのさ。」 というドン・ファンの一言ではぐらかされてしまう。 「履歴を消しちまうことがベストだ。そうすれば他人のわずらわしい考えから自由になれるからな」 そんなことがどうしてできるのかというカスタネダの問いにたいして、 「少しずつバランスをとって切りとってゆくのさ。」とドン・ファンは答える。 「少しずつ自分のまわりに煙幕をはらにゃいかんな。確かなこととかリアルなこっとかがいっさいなくなるまで、自分のまわりにあるものをみんな消さねばならんのだ。」 真木悠介『気流の鳴る音』
大学1年生の頃、のちの指導教官の研究室に足繫く(といっても1年間で3、4回程度だったように思う)通っていた。研究熱心だったからではない、先生熱心だったのだ。
たまたま推薦入試の面接官であったかの人は入学式後の学部のオリエンテーションで司会進行を行っていた。その姿を見かけた時に「この人のことを好きになってはいけないだろうけど、好きにならざるえないだろうな」という諦念に近い予感を覚え、そしてその日の夜、夢のなかで先生を見かけたことでそれは大学生活の中心、あるいは、核心とも言えるような現実となった。
そこから4年間、先生に懸けた(賭けた)日々を送るのだが、1年生の時は、正攻法で、あるいは怖いものなしで、先生の研究室を何回か訪問して、たくさんの質問を投げかけた。カスタネダがドン・ファンへ「調査の項目をたくさん用意」したように。
私は先生になりなかった。先生と同じものを食べ、同じものを読み、同じものを見て、同じところに行き、同じものを持てば、先生に知れるのだと、先生をなれるのだと信じて疑わなかった、何も。だから、先生を形づくると思われた固有名詞を集めることに夢中になった。そして、何度目かの訪問の際に先生に「貴方は質問が下手」と返答され、それ以来一人で研究室を伺うことはほとんどなかったように思う。
あの時、「煙幕」を纏っているように見えた先生を、私は自分が理解可能な「履歴」(インターネットで検索すればヒットするような固有名詞など)に落とし込むことで、自分の枠組みの中で先生を捉えようとしていた。
それがそのひとを真に知ることにはならないことは、今でも自戒にしている。そして、今でもひとを真に知ることができるのだろうかと思いながらも、ひとを真に知ろうと試行錯誤している、そんな別れと出逢いの季節だ。