アポトーシスし損ねた愛の行く末──映画「エゴイスト」鑑賞に際しての覚書

※本文には映画「エゴイスト」の結末に関する言及箇所があります。また、記載している映画内の台詞は全てうろ覚えであり、ニュアンスで書いているものです。

他者を愛することは難しいと日々感じている。だって、他者への愛の中に、気づかぬ間に自分のエゴが入り込んでしまうことがあるから。他者を愛しているようで、実は自分を愛しているだけに過ぎない時がある。他者を道具にして、いや、道具にしないと自分を愛することができないって残酷だ。

でも、愛ってなんだろう、エゴってなんだろう。

映画『エゴイスト』を鑑賞してから、愛とエゴという言葉が自分の頭の中でくるくる回っていた。映画を見る時、私には対比関係に注目して、映画を読み解こうとする癖がある。

『エゴイスト』も例に漏れず、様々な対比関係があった。なかでも、鈴木亮平演じる主人公の浩輔と、浩輔と愛し合うようになる宮沢氷魚演じる龍太は物語の主軸となる対比関係にある。

最愛の母親を幼いころに失った浩輔と、両親が離婚し病気がちになった母親を若くして支えて大切にする龍太。地元で同性愛者であることを馬鹿にされたことへの復讐のように稼ぎの良い仕事を持ち、自由気ままな生活を送る浩輔と、母親を支えるために高校を中退してしまったためなかなか仕事に就けず、自分の身体を売ることで生計を立てる龍太。

一人ひとりが抱えるアンバランスさは二人が関係を持つことによって、絶妙なバランスが成り立つようになる。富める浩輔は、金銭的な支援(毎月10万円を渡すようになる)、物質的な支援(龍太との別れ際には毎回母親への手土産を渡すようになる)という形で、龍太を愛するようになる。一方で、「一緒に頑張っていこう」という浩輔の言葉の通り、龍太は浩輔と付き合うことをきっかけに自分の身体を売る商売を辞め、調理場の皿洗いや廃品回収業者など、肉体労働に励むことになる。

そのように愛し合う二人の行く末にあったのは、過労による龍太の突然の死であった。

浩輔は自分が龍太を殺してしまったと悔やむが、葬式の際に阿川佐和子演じる龍太の母親(妙子)から「龍太はあなたに救われたと言っていた」と教えてもらう。それでも、空いてしまった心の穴は大きく、今度は浩輔は龍太の母親に対して、龍太を愛するように、龍太が大切にしたように、愛を捧げていく。龍太に渡していた10万円は妙子の手元に行きつき、亡くなってしまった息子の代わりとして妙子と関わっていく。最初は遠慮していた妙子も次第に心を許し、息子のように浩輔に接するようになる。

しかし、その愛の行く末もまた、妙子が末期の癌によって、余命いくばくもないという状況にたどり着いてしまったのだった。

「エゴイスト」とは浩輔のことだ。(私は龍太も妙子もエゴイストであると考えているが、ここではあえて省く。)でも、この浩輔のエゴを美化して賞賛することも、シニカルに批判することも、私が強く感じたことではないように思う。そもそも愛とエゴってどのような関係性なんだっけ?

そのようなにひとと話していた時、ふと、頭の中に「アポトーシス」という言葉が浮かんだ。もう何年も前になる、大学1年生の頃、哲学の授業で聞いたこの言葉はなんだっけ。

『日本百科全書』によると、アポトーシスとは、「生物を構成する細胞が自分の役目を終えたり、不要になると、みずから死ぬ(自殺)現象。細胞死ともいう。アポトーシスそのものは古くから知られていた。胎児にみられる手の水かきが体の成長とともに消えていく過程、両生類の尾の退化などがこれに該当する。アポトーシスは、あらかじめ細胞内の遺伝子にプログラムされているといわれ、癌、アルツハイマー病やエイズ、一部の神経筋肉疾患などの発症に関与すると報告されている。ある種の癌抑制遺伝子を欠いた細胞は、アポトーシスをおこしにくいことから、一部の癌抑制遺伝子はアポトーシス制御機能をもつと判明し、アポトーシス抑制遺伝子の利用に関する研究も発表されている。(…以下、省略)」

大学時代に先生から共有されていた講義の振り返りより引用

「ああ、エゴとはアポトーシスし損ねた愛なんだ」と腑に落ちた。

浩輔の龍太への愛とは、もともと浩輔が自分の母親に対して抱いていた愛ではなかったのか。幼いころに亡くなってしまった母親、もう生きている母親を愛することも愛されることもできない。浩輔の中に遺ってしまった愛は、自然と消える、つまりアポトーシスすることなく、謂わば「癌化」して、龍太への、妙子へのエゴになった。自分がもうできない母親を大切にする龍太を愛し、龍太亡き後は、妙子という母親を大切にするようになる。ただ、癌化した愛(エゴ)は龍太へ、妙子へ転移して、結果的にその生命を奪ってしまう。

アポトーシスできなかった細胞は癌化して無限に増殖してしまい、ついには宿主である生物そのものを死に至らしめて、ようやく自らも死ぬことができるのだ。浩輔のエゴと化した愛も、二人を死に至らしめることで、ようやく死を迎えて、昇華されることになったのだと思う。

冒頭の話に戻ろう。では、結局、浩輔は龍太、妙子を道具として自分を愛していただけに過ぎないのか?そうではない、と私は思っている。前述したが、私は龍太にも、妙子にも、浩輔の愛にはエゴが混ざっていたと感じた。でも、この浩輔と龍太、浩輔と妙子の間にあった愛というものは実は打算的なもので、お互いに自分のために他者を利用していたに過ぎないというわけでもない。

気づかぬ間に自分の愛がエゴになってしまうことがあったとして、それによって他者を死に至らしめることがあったとしても、その恐ろしさを前にしてもなお愛したいという欲望に逆らわず、恐ろしさを超えていくことが愛なのではないかと思ったのだった。