鉄の味
小説の主人公が顔を殴られた時に「鉄の味が口いっぱいに広がった」なんていう描写があったりするが、「これは鉄だよ」と言われながらご飯を食べたことがあるわけでもないのに、「あーあの味ね」となんとなく想像がつくから不思議だ。
私が物心ついてから最初に「鉄の味」を認識したのは、小学生の頃に食べたスーパーの「カボチャサラダ」だった。カボチャのほかに、レーズン、ナッツなどが入った黄色いペースト状のサラダは、まるでお菓子のクリームのようで、食卓の小鉢にそれが初めて盛られた時はなんて美味しそうなんだと目をキラキラさせた。
ワクワクしながらそれを食べると、お菓子のような見た目とは裏腹にツーンとした苦い味が先行して口の中に広がった。それは、錆びた鉄棒を想起させる味だった。母に「鉄の味しない?」と言ってみたが、全く同意は得られず、その後も定期的に「鉄のカボチャサラダ」は我が家の食卓に並んだ。
今となっては、あのカボチャサラダの何が「鉄の味」だったのかは思い出せないが、未だにカボチャサラダを見ると鉄の味を感じないように鼻を摘まみながら食べた経験が蘇る。
爆発のイヤホン
大学生だったある日のこと、いつものようにスマートフォンにイヤホンを挿して音楽を聴いていると、両耳のイヤホンで「パチパチ」と何かが弾けるような音がした。耳障りが悪く、嫌な感じがしたので、音楽をよく聴く大学の友人に「イヤホンから『パチパチ』っていう音がしたことない?」と聞いてみたが、全く見当がつかないという。それは故障ではないか、とすら言われた。しかし「まだ1年くらいしか使っていないのに・・・」という貧乏性が働き、しばらく「パチパチ」音と音楽が混ぜこぜになりながらイヤホンを使い続けた。
もはや音楽と「パチパチ」音の融合に慣れ始めていたある日、大学の校舎に向かって歩きながら例のイヤホンで音楽を聴いていると、いつもより「パチパチ」音が多く、嫌な予感がした。なんだか耳の奥から不気味な音が迫ってくるようだった。
次の瞬間、左耳で「ボン!」という破裂音がして、慌ててイヤホンを取った。左耳で爆発でも起きたのかと思った。イヤホンを耳に近づけてみると、音楽の向こうでまだ「パチパチ」と言っている。
さすがに「イヤホンが爆発した」と言っても誰も信じてくれなさそうだったので、その出来事は「イヤホン爆発事件」として心の中で処理した。それ以来例のイヤホンは机の引き出しの中で眠っている。
生活のにおい
どんなに洗濯をきちんとしていても、1年に1回くらい、「うわ、『生活の臭い』がする」、と己の下着が臭く感じることがある。それは、給食室に何日間も閉じ込められたような、そんなイメージを想起させる臭いだ。
初めて「生活の臭い」を感じたのは、小学生の頃、友達の家に遊びに行った時である。女子何人かで訪れた、綺麗な一軒家だった。玄関の扉を開けて中に入ろうとすると、その「臭い」が突然鼻を襲った。エグみを伴った、今まで嗅いだことのない臭い。正直、この空間にずっと居たら吐きそうだ、と思ったが、周りの友達はそんな素振りも見せない。息を止めて臭いを感じないようにしながら5時のチャイムが鳴るのを待っていたあの時間は、幼いながら苦行だった。
自分の下着からする「臭い」も、誰かを不快にさせるかもしれないし、その正体を知りたい。母に「このヒートテック、変な臭いしない?」と尋ねてみたが「何も感じない」と一蹴された。そこから住空間における得体の知れない、いやな臭いのことを「生活の臭い」と呼んでいる。
夏のある日の仕事終わり、自宅に向かって歩いているとカレーの匂いがした。そこから追うようにシャンプーの甘ったるい匂いがした。やがてその2つは混ざり合い、「甘ったるい清潔感のあるカレー」の匂いになった。どうやらアパートのどこかの部屋から匂っているらしい。今日の夕飯はカレーで、風呂上がりの子どもたちがリビングに入ってきたのだろうか・・・。上へ上へと上っていくその「生活の匂い」を追いかけると、赤紫色の夕焼けが広がっていた。外にまで漏れ出たその「生活の匂い」は、定期的に出会う「いい匂い」となった。
目が悪いということ
「目が悪い」と自覚するためには、特定の対象物が見えるかどうかで判断するか、「それは全然見えてないですよ」と誰かに言ってもらわなくてはならない。
中学校に上がってから、黒板の文字が致命的に見えなくなった。字がぼやけ、目を細めなければピントが合わず、しまいには手元のノートに書き写す文字が本当に合っているのかすらわからなくなっていた。周りに「授業の時だけ眼鏡をかける」というスタイルをとる生徒がいたので、日常生活は裸眼で、授業の時は眼鏡で、という生活になった。
高校に上がり、弓道部に入った。裸眼では28m先の的は見えないが、眼鏡は弦に当たりそうで怖い。そこで、「コンタクト」という第2の手段をとるため、初めて眼科に行った。
「眼鏡は普段掛けているんですか?」
眼科のスタッフが、視力検査の後片付けをしながら尋ねてきた。いや、授業の時だけです、と答えた。
「え、それじゃあ全然見えてないんじゃないですか、危ないですよ」
衝撃だった。自分は日常生活なら眼鏡無しで生きていけると思っていた。たしかに見えづらいと感じることもあったが、自分は「見えている」と思い込んでいたのだ。眼科スタッフによるその「宣告」は、なかなかに受け入れがたいものだった。
視力というのは、事故など明確な原因がない限り、ある日突然ガクンと落ちるものではない。本人が気づかないうちに、ちょっとずつ世界がぼやけていく。そのぼやけた世界がその人の「世界」だから、「目が悪いよ」と数字や他人に言われない限り、ぼやけていることにすら気づけないのだ。
あの「宣告」以来、朝起きてから夜寝るまで、眼鏡をかけて生活している。今の私に「目が悪くなってるよ」と言うのは新しい眼鏡を買うときに訪れる眼鏡屋の視力検査である。
「眼鏡の度を上げますか?」
この言葉に、すぐには頷けない自分がいる。だって、見えてるもん…!
やっぱり「目が悪い」ことを自覚するのは何年経っても難しい。
ブルーベリージャムの罠
例えば、夕飯でサンマやアジの開きを食べている時などに、「骨が喉に引っかかった!」という経験をしたことがある人は多いと思う。その時の対処法としては、米を食べて米のネバネバが運良く引っかかった骨を包み込み、一緒に胃まで運んでくれる、という米頼みのものが通説だろう(最近はこれも間違っている説があるらしいが)。
しかし、それは朝食の、しかもブルーベリージャムが入ったヨーグルトを食べた時に起きた。我が家では母が庭で採れたブルーベリーをグツグツ煮てブルーベリージャムを作るのだが、その時はブルーベリーが完全に溶けきらず、固形のブルーベリーが混じったジャムだった。いつものようにあまり噛まずにヨーグルトを喉に流し込むと、妙な違和感があった。
喉が痛い。何かが引っかかった感じがする。
しかし、そんな引っかかるような尖ったものは朝食にない。我が家はパンとヨーグルトの洋食派なのだ。まさか、ブルーベリーの皮・・・!?
「米効果」を狙って、ヨーグルトやパンなど他の食べ物を流し込んでみたが、全く取れる気配がない。うがいを喉の限界までしたり、昼食で米を食べて様子をみたが、全く効果が無い。「ブルーベリーの皮が喉に引っかかってちょっと痛いんだよね・・・」と昼食を共にした友人に言ってみたが、「ブルーベリーが引っかかるわけがない」と言われ、ネットで検索してもブルーベリーの皮が喉に引っかかった人はがいなかったので途方に暮れた。
最悪、魚の骨でも取れなかったら病院に行かなくてはいけないらしい。食べ物と一緒に胃に流れ落ちるどころか、食べると喉の痛みは増していった。お医者さんに「実はブルーベリーの皮が喉に引っかかって痛いんです・・・」と言わなくてはいけないかと思うと、想像するだけで恥ずかしい。せめてイワシの骨ぐらいであってほしかった。
その後3日くらいは喉の痛みがあったが、気づいた時には食べ物が喉を通過しても痛くなくなっていた。本当にブルーベリーの皮が原因だったのか定かではないが、それ以来ブルーベリーはよく噛んで食べるようにしている。
(みそちゃんからのお題:視覚、嗅覚、味覚、聴覚、触覚をテーマに5篇書く)