畢竟、人間とは、さまざまな形式と内容からなる <交換>を繰り返して生きていく存在だからだ。 『scripta』ある巻のある一篇より
たまたまこの世界に生まれ落ちた日、太陽が天秤座の空に在ったというだけのことだが、いつからか、わたしは自分が天秤座であるということを選択や判断の基準の一つにするようになっていた。
どういうことか。ここで言いたいことは占星術的な自己分析を行ったということではない。二つのものが見事に釣り合う一点を見つけ出す道具である「天秤」をイメージしながら、わたしのなかで絶えず渦巻き犇めき合う欲望たちが一堂に調和する一点(と思われるもの)を選んできた、ということだ。
そして、その「天秤」のイメージは他人との関係を築くうえでも同じように思い浮かんでいた。他人から自分が受け取った分だけ、自分も他人に与える。母親に昔から聞かされてきた「give and take」という言葉の影響もあったのだろう。
例えば、友人から誕生日プレゼントをもらったら、自分も友人へ同じ価格帯の誕生日プレゼントを贈る。恋人から愛の言葉をもらったら、自分も恋人へ同じ重さの愛の言葉を贈る。そのように、わたしは「他人から受け取るもの」と「自分が与えるもの」が<等価交換>になるように意識していた。
この<交換>は、他人との関係だけでなく、自分の人生でも起きているようだと、これもいつからか思うようになった。何かを失ったら、代わりに何かを与えられる。と同時に、何かを与えられたいなら、何かを棄てなくてはならない。
そのような<交換>の概念を持っていたわたしは、つい先ほど永らく切望していたある文章を、想定していた以上に早く受け取ってしまったのだった。
わたしは、この文章を受け取った<交換>として、これから何を与えていくのだろう。
また、この文章を与えられた<交換>として、いまこの瞬間に何を失ったのだろう。
そして、与えていくもの、失ったものは、どのような形式で、どのような内容なのだろうか。
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この引用元の冊子名である「scripta」という語は、どうやら「Verba volant,scripta manent.」というラテン語のことわざから取れられているようだ。日本語に訳すと「言葉は宙を舞い、書いたもののみ残る」という意味らしい。
先述したように、ある文章を永らく切望していたわたしは、その文章がこの冊子に納められているような予感を感じて、「scripta」という語を検索し、冊子の詳細と共にこのことわざにたどり着いた。これは別の話だが、ちょうど近しい人間が自分宛に書き残していた文章を享受していたわたしは、このことわざの意味することに深く首肯していたのだった。
そのようにしながら、ついに冊子が刊行されたことを知り、すぐさま冊子を手に入れたわたしが、待ちわびていた文章を読み終えたとき、最初に思い浮かんだ言葉はあのことわざだった。
文章を読んだことで、自分のなかに生まれた感情や思考は言葉に成らなかった。この言葉たちを紡いている間にも言葉から零れ落ちていく、言葉に成らないものが確かに在る。
でも、それでも、一生に一度しかない、いまこの瞬間を、手元に流れ落ちてきてくれた、この一筋の綺羅星を、宙に浮かせたまま残さないのではなく書いたものとして残したい、そのことをこのことわざが指南してくれたのだ。
その指南に従い、ここに書いたものを残す。いつか、わたしの書いた文章に、また先生の目を通してもらえる日が来ることを、この綺羅星に誓って。