※本文には映画「そばかす」の結末に関する言及箇所があります。また、記載している映画内の台詞は全てうろ覚えであり、ニュアンスで書いています。
「私はこれから、その真率な発展がすべての美の生活を持つあの情熱について報告する。」
スタンダール『恋愛論』,「第一章 恋愛について」pp.10
「結婚適齢期」と世間的に呼ばれるような年代に差し掛かった私だが、近ごろ自分の想像や理解をあっという間に追い越すように「結婚」にまつわる大波が次々と押し寄せてくるようになった。
と言っても、「毎週のようにInstagramでは誰かが結婚報告をしている」とぼやく周りの友人のようにはいかず、私の周りではごく限られた数ではある。比較的親からの結婚コールも弱く、嫉妬や焦りを感じるほどに結婚する友人が増えているわけでもない私が感じる「大波」とは「結婚」そのものではなく、「ゆくゆくは結婚へとつながると想定される恋愛関係」だ。
大学時代から周りの友人たちには恋愛関係であるひとがいたし、私自身も恋愛感情を抱えやすい人間である。そのような状況であったから、「恋愛」自体は見慣れたものであったが、それが「結婚」へとつながるのだ、ということが友人たちの話から、そして自分自身もつい最近恋愛関係の相手ができてから、ようやく朧げながら見えてきたのだ。
ちなみに、「恋愛」と「結婚につながる恋愛関係」の違いをざっくり説明すると、(誇張的に記載するが)「恋愛」は恋愛100%に対して、「結婚につながる恋愛関係」は恋愛40%、友人25%、家族10%、同僚5%…と他の要素も入ってくることだと言える。人間関係はそれがどのような関係でもそうであるが、ある一人との関係の中に様々な要素が様々な割合で入っているものだ。ただ「結婚」につながる関係だけには1%だけでも「恋愛」が必ず入っている、そして(大抵の場合)それは一人との関係の中にしか含まれない、と現時点で私は考えている。
*
「結婚につながる恋愛」を友人たちの話から垣間見てきて、そして、その居心地の良いぬるま湯のように見える泥沼に自分自身が浸かりはじめていた時に出会った2023年1本目の映画が玉田真也・監督/三浦透子・主演の「そばかす」だ。
「そばかす」の(これまた)ざっくりとしたあらすじだが、他人に恋愛感情や性欲を抱けない女性の主人公(蘇畑佳純/役・三浦透子)が性に対して多種多様な考えを持つ登場人物(例えば、結婚にうるさい母親や、結婚して妊娠中の妹、仕事に没頭していて恋愛には興味ないというお見合い相手の男性、ゲイの同僚、政治家の父親を持つ元AV女優の同級生など)と関わっていくことで、自分自身の輪郭を摑み、未来へ進み始める物語である。
本作では、他人に恋愛感情や性欲を抱けない人(注釈:映画の中では意図的に明言されていないが、一般的には「アセクシャル」と呼ばれる)をフックにして、ロマンチック・ラブ・イデオロギー(注釈:愛―性―結婚の三位一体)が潜在的な多数派であり、そのことにより暴力性が生まれていることが浮き彫りにされていると私は考える。そして、本作を見終わった時に真っ先に感じたことは「結婚につながる恋愛」に対する恐怖と抵抗と絶望であった。
*
映画の冒頭は、佳純が同僚の女性に連れられてきた合コンのシーンで始まる。同席している男性たちから「好きな男性のタイプは?」「キュンとする男性のしぐさは?」と聞かれてうまく答えられない佳純。その上、同席した男性に「僕、蘇畑さんのことに好きになっちゃったみたいなんだけど…」と(曖昧な)告白を受けて返答に窮してしまう。
合コンから家(注釈:佳純は実家で家族と共に住んでいる)に帰ればすかさず母親から「あんたはいつ結婚するの」と質問攻めに遭ってしまう。その質問から逃れたかと思えば後日母親は勝手にお見合いをセッティングして佳純を連れていってしまう。
そのお見合いで知り合った男性は「仕事で忙しいから恋愛には興味がない」と言っていたから友人として会う回数を重ねていたのに、男性はそのうちにいつの間にか佳純を「恋愛的に」好きになっており、当然のようにキスを迫られて、最終的に佳純はその男性との友人関係を失ってしまう。
同僚の男性に実はゲイなのだと告白され、佳純が幼稚園の頃に男の子から告白されて何も答えられなかったと(ある種の告白的な)話をするも、「子どものときはそういうのってわからないものだよな」と今現在も恋愛感情がないことは理解されない。
このように些細な言動、当たり前だと思っている価値観の中に「他人に恋愛感情を持つこと」は刷り込まれている。私の周りにはこのような言葉が溢れているし、なりより私自身もこのような言葉を気づかぬうちに発してしまっているだろうと反省した。
私はこの映画を見る前からアセクシャルと呼ばれるひとがいることを知っていた。世間的に「LGBT+」と呼ばれるひとから話を聞くこともあり、自分自身にも「ヘテロセクシャル」で割り切れない部分があることを認識していたので、セクシャリティについて全く無知であるというわけではないと思う。でも、恋愛感情を多分に持ち合わせやすく、また実際に恋愛関係に浸りはじめた自分にとって「恋愛」はあまりにも甘美なものだと感じていた。
*
そもそも私の目指すべき姿は「自分で稼いだお金で自分を食わしていくこと」だった。これは子育てをしながらもフルタイムで働き続けている母親の姿であった。その母親の強固な思想により、私は幼少期よりディズニープリンセスを見せられず、代わりに「風の谷のナウシカ」を見させられるような教育を受けてきたので、結婚や子育てが女性の人生の全てではない、結婚はゴールではなくスタートラインであり墓場でもお花畑でもない、と早い段階で思うようになっていた。そして、大学で自ら選んで哲学を専攻したことをきっかけに、自分の人生を他人に捧げるよりも自分を一番に優先してやりたいことがあると感じていた。
そのような私でも「恋愛」を目の前にして、そして浸りはじめると、そのような今まで培われてきた教育や思想はあっけなく失われていき、「結婚して、ゆくゆくは子どもを産んでもいいかな」と思わせるくらいの力を感じていた。そして、同じく恋愛をしている同年代の友人たちと恋愛関係にある人の話をして、今後はどうしていくのか、つまり結婚するのか、という話をしていると、恋愛とその先にある結婚の魅力は何重にも増幅していき、いよいよ頭の先まで浸りきってしまいそうになっている。なぜ、そんなに恋愛と結婚が甘美に感じるのか、いまだにうまく言語化できていないのだが、体感では他にはなかなか感じがたいものがあるのだ。
「そばかす」を見たことで、「恋愛(感情・関係)」という無色透明なフィルターが色づいて、それを改めて認識できるようになり、私はそのフィルター一つで世界の見方が変わってしまっていた自分に気づき、恐怖を感じた。
この部分に関連して、映画のパンフレットには、アセクシャルの人について、次のように書かれている。
何人かのアロマンティック・アセクシャルの方に体験談を聞かせてもらったのですが、最もよく聞いたのが「恋愛感情がないことを人に信じてもらえない」という悩みでした。大抵、「いい人にまだ出会っていないだけで、出会ったら変わるよ」と言われるそうです。本人はある程度の年数を生きてきて、そんなことはないとわかっているのに。
「いい人にまだ出会っていないだけで、出会ったら変わるよ」、なんでこのようなことが言えるのだろうか、と「そばかす」を見る前から思っていたし、今後も自分がこの言葉を発することはない。ただ、自分が恋愛関係に浸りはじめた今、このように言ってしまう人の気持ちがわかるようになった気がする。
*
本作の前半は男性たちとの関わりが主に描かれるが、後半は同級生の女性との関わりが主に描かれる。
ある日、海辺で佇んでいた佳純は偶然同級生の世永真帆(役・前田敦子)と再会する。真帆のキャンプの誘いをきっかけにして二人は急速に距離を縮めて(注釈:物語的にはこの間にセクシャリティに関する様々な出来事があるのだが、本文の主題とは逸れるため割愛する)佳純は真帆に同居を持ちかける。驚く真帆だったが「面白そうだからいいよ」とその場で快諾。(この場面を見た瞬間、私は涙がこぼれた。この先の展開を感じてしまったからだ。)…したものの、最後の内見の段階になって時間通りに部屋に現れない真帆。(ここで次の展開がはっきり読めてしまい、さらに涙がこぼれた。)馴染みの喫茶店で向かいあう二人、真帆は佳純に、昔付き合っていた男性と結婚するため同居はできないことを告げる。最初は何も言えなかった佳純だったが、「この結婚は自分でも納得して決めたこと」と言葉を重ねる真帆に対して、「それは、おめでとうだよ」と心から祝福の言葉を述べる。
この場面に対してはやけに私情を挟んでしまった。それもそのはず、私は今まで二回ほど女性(自分にとっては同性になる)との同居を経験している。同居の合計期間は、実家から出てから今までの期間の三分の一といったところだ。そして、つい最近、その同居を自ら申し出て解消し一人暮らしを始めたところだ。同性との同居は二回もするくらいに楽しい日々だったが、今はもう当分は同性は暮らすことはできないと思っている。
当分は同性と同居することはない、そのように思った理由は「私の友人の多くの女性は男性と結婚するものであり、そして、私と同性の友人たちはその結婚適齢期になってしまっていることがわかったから」だ。そして、今回の同居の解消を自ら申し出た理由は(平たく言うと)「同居人が恋人の家で週の半分を過ごすことを自分は受け入れることができなかったから」だ。
後半の理由について他人に説明すると大抵納得されないし、私もうまく言語化できていないと感じていた。私が恋愛感情を抱くのは経験上ほぼ異性である。(少なくとも、同居人に対して恋愛感情は抱いていなかった。)だから、同居人の恋人に対する嫉妬ではない。また、同時期に自分自身にも恋人がいたので、同居人に対する嫉妬でもない。また、同居は正直なところ利点が多い。生活費はほとんど折半だから一人暮らしに比べて経済的にも助かるし、人といることを好む私にとって帰ったら人がいるという環境はありがたいものだった。なにより、気心の知れた女性の友人との暮らしには、お互いに率先して家事を行う姿勢と、同性ならではの気軽な心地よさがあり、恋愛関係にある男性と暮らすことでは得難いものだと、私は感じていた。
では、なぜ私はそのような同居を解消してしまうほど、同居人の二拠点生活を受け入れられなかったのか。本作を鑑賞して一つ腑に落ちたのは「友情(言い換えると、非-恋愛)関係は恋愛関係よりも優先度が低い」ということを(本作でも実際の同居生活でも)目の当たりにしたからではないかと思っている。
真帆は自分と近い思想を持つ同性の佳純より、一度は別れてしまうような異性の人間(注釈:ここでは対比関係を際立たせるために恣意的な表現をあえて行った。)と結婚して一緒に暮らすことを選んだ。当初は週に1日程度だった恋人の家への行き来が徐々に増えていく中で、同居人のこの後の生活の先には恋人との同性と結婚があることが見えていた。恋愛関係にある人間と結婚しても、恋愛関係にない人間と一緒に暮らすことは可能だ。だけど、真帆や同居人を含めた大半の人間は、恋愛関係にある人間と結婚してその人間と暮らすことを望む。そして、私もそこに含まれる人間の一人であることに気づき、そのことに抵抗したい気持ちと、それが難しいことであることへの絶望を感じた。
「恋愛」だけが「結婚」という最も優先されるべき関係性につながる道となる。そして、冒頭で記したように「結婚につながる恋愛関係」には「恋愛」だけでなく、そのほかの関係性の要素、例えば「家族」も「友人」も含まれる/含められるようになっている。とどめのように「恋愛」はただ一人との関係にしか含まれない。このようにして、結婚適齢期にある私にとって恋愛関係にある人が唯一無二の(関係性である)人間となっていく。私と関係ある人間すべてが私にとって唯一無二であるのに!
*
本文は、映画「そばかす」を媒介として、最近自分の中で膨張していたロマンティック・ラブ・イデオロギーに対する自戒を込めて記したものだ。
女性同士の関係を表す一つの語である「シスターフッド」など、昨今女性同士の連帯に注目が集まっている。私だって大切な同性の友人がいることはわかっている。恋愛という要素をすべての人間関係から抜いてみると、自分と関係のある人間に優先順位がない…と言うと嘘になってしまうようなさもしい人間だが、優先順位は変わる。けれども、ひとたび「恋愛」という要素が入ってしまうと、魔法のように、否、雲がかかったように、まさに「恋は盲目」、その人しか見えなくなってしまう。それどころか、(アセクシャルを含めて)「恋愛」を介さない他人も、挙句の果てには自分さえも見失ってしまいそうになる。
そのように気づかぬうちに、他にも私はたくさんの無色透明のレンズ越しに世界を見ているのだろう。そのレンズ一つ一つを色付けするようにして、無意識のうちに染み付いた自分の思考の癖や偏りを自分の言葉で捉えていく、そのような2023年にしたいと思った。